2019年受難節 イースター ペンテコステ
四旬節(Quadragesima)は、復活祭の準備の季節である。「四旬節」という言葉は「40日間」を意味する。復活祭までの日曜日を除く40日間が断食の期間とされたので、灰の水曜日が四旬節の始まりの日になる。 2019年は、3月6日(水)から日曜日を除く40日間のレント(四旬節、受難節)が始まり、4月14日(日)が棕櫚の主日、14日からの一週間は受難週、4月18日(木)が洗足木曜日、4月19日(金)は受難日そして4月21日(日)がイエス・キリストの復活を喜ぶ復活祭である。 復活祭 (ご復活の主日) は、十字架にかけられたイエス様が3日目に蘇られたことを記念する、キリスト教の最も重要なお祝いの日である。
受難週
Maundy Thursday(洗足日 木曜日) ヨハネによる福音書13章3-17節
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
Holy Friday受難日 (金曜日)
受難日といい、キリスト・イエスが十字架にかかられた日として覚える。
イエスが十字架につけられた日です。逮捕、嘲笑、たらい回し、茨の冠、死刑判決、涙の道の行進、十字架上の7つの言葉。様々な出来事が聖書に書かれてある。
マタイ26:67-68
そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
マタイ27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
マタイ27:29
茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
ヨハネ19:23-24
兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
マルコ15:29-30
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
ヨハネ10:20
多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」受難日にはイエス・キリストを覚えて、南町田教会では「受難日祈祷会」を行う。
ペトロ一3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけない。
コロサイ1:24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている。
テモテ二1:8 だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはならない。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
テサロニケ一3:3 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでだ。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っている。
ローマ8:17 もし子供であれば、相続人でもある。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人である。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからだ。
キリスト・イエスは私たちの罪と背きの罰を担って、人間と同じ方となり私たちのために十字架にかけられた。神であるキリスト・イエスは確かに十字架から降りる力を持っていた。しかし、イエス・キリストは神であったからこそ私たちを救うために無力な人間と同じ姿となられ十字架の上から降りることなく、私たちに代わってその苦しみと死を担われたのだ。
キリスト・イエスの苦難の目的
マタイ 26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
ペトロ一3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれた。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのだ。あなたがたを神のもとへ導くためだ。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのだ。
フィリピ3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言うが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのだ。
キリスト・イエスの苦難の性格
マタイ27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
ローマ5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された。
ローマ4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのだ。
キリスト・イエスの死の意味
ローマ4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた。
ヘブライ2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられた。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでだ。ガラテヤ2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのだ。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものだ。
受難のキリストの予定
出エジプト記 2章6-8節
モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」レビ記 16章30節
なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。
マルコによる福音書1章12-15節
「 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。』」
エルサレムに迎えられる(ルカに福音書19章28-40節)
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った。
イエスはお答えになった。 『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。』
復活祭は英語では「イースター」という。
イースター(4月21日)には卵がつき物である。これは東欧諸国で卵は生命の誕生や復活を象徴するものとして、古くから用いられていたことに由来る。教会ではゆで卵を作ってそれに色を塗ったり絵を描いたりして飾りつけ、復活祭の日にプレゼントをする。 南町田教会でも教会学校が中心となってゆで卵を作る。 ゆであがった卵に食紅で赤・黄・緑の色づけをし、かわいいシールを貼ったりイラストのついたミニカードを入れて出来上がり復活日の礼拝に来た方にプレゼントをする。
キリスト教信仰とは、すなわち、復活の信仰である。(Auferstehung Jesu)「父が死者を復活させて、命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」ヨハネによる福音書5章21節
私たちの信仰が復活の基礎ではなく、復活が私たちの信仰の基礎である。「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
コリントの信徒への手紙一15章 14節
キリスト教信仰がキリストの復活に基づいているということは私たちの信仰が神の現実を作り上げるのではなく、私たちの信仰が神の現実に基づいて存在することを意味する。 キリストの実在性(Wirklichkeit; Realiry)はキリストが十字架上に死なれたことである。これは一体どういうことなのか。その出来事の本質は、罪なき神の子キリストが、神の御計面に従い、「わたしたちの罪のために」死なれたことにある。
ここに神におけるキリストの当為性(sollen)がある。わたしたちの罪を負い、罪に対する神の裁きを受け、死の暗闇を味われたのである。
それは、彼を信じ彼に合わせられる者が、彼と共に死ぬことにより、罪に対して死に、罪の支配から解放されるためである。
使徒信条は復活をどのように言っているのか? 復活した方は言うまでもなく十字架に死なれた方である。 すなわち、キリストの復活はキリストの十字架と内的な関連性を持つことを意味する。
キリストの復活が十字架の出来事と関係がある。
十字架の死と復活は切り離して考えてはいけない救済のわざの中心的事柄である。
すなわち、救済論的な視点で十字架における主イエスの死は復活と結びつけて、「勝利者キリスト(Christus victor)」である。